INTRODUCTION
-
メキシコの新たな才能、マイケル・フランコ堂々の登場
妻・ルシア(スペイン語で"光"の意)を事故で失ったロベルトと娘のアレハンドラ。父は過去の一切の記憶を捨て、新たな場所に光を求めた。娘は過去の出来事と折り合いをつけ、生きる道を探そうとしていた。しかし父は自身が持つ凶暴さを諌めることができず、一方娘も不条理な暴力に呑みこまれていく。そこはまさに"光"の届かぬ世界だった…。
かつて亡命と越境を経て、メキシコに辿りついた異端の巨匠ルイス・ブニュエルは、メキシコ・シティのスラムを舞台に、不良少年たちの残酷な暴力を描いた名作『忘れられた人々』(50)でカンヌ国際映画祭の最優秀監督賞を受賞し、世界中を震撼させた。
今、新たにそのメキシコ映画界から弱冠31歳の恐るべき新鋭監督マイケル・フランコが現われた。第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリに輝き、アカデミー賞メキシコ代表に選出された『父の秘密』はマイケル・フランコの第二作で、現代を不気味に覆い尽くす〈暴力〉を透徹した眼差しをもって描いた作品である。
-
日常にひそむ狂気
交通事故で最愛の妻・ルシアを失ったロベルトと娘のアレハンドラはその悲痛な記憶から逃げ去るようにメキシコ・シティに移り住む。シェフの仕事に就いたロベルトは、いちゃつく若いコックのカップルに怒りを覚え、突然職場を辞めてしまう。ロベルトは、不意に襲ってくる悲しみと意気阻喪の発作にじっと耐えるほかない。
一方娘のアレハンドラは、母の死をひた隠しにして転校先のクラスメートたちと親しくなるが、週末訪れた別荘で、酔った勢いでセックスをした男子生徒ホセに行為の一部始終を盗撮され、ネットでアップロードされてしまう。すぐさま携帯には「よう、アバズレ」という卑猥な中傷の書き込みが次々となされ、仲間を装っていた級友たちは猛然と牙をむいて、陰湿きわまりないイジメを開始する。
トイレに入っているアレハンドラを、下半身をむきだしにして急襲し、ふたたび携帯で盗撮しようとする男子生徒。さらに嫉妬からハサミでアレハンドラの髪を切り刻む女友だち…。とめどなくエスカレートしていくおぞましいイジメの数々を、映画はあくまで即物的に定点観測のごとく冷静に見つめ続ける。
マイケル・フランコは、このような陰惨なイジメが発生する社会的な背景や因果関係を一切、説明しようとはしない。対象への安易な感傷や感情移入を排し、残酷な現実をそのまま丸ごと提示するだけである。それは時には、ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』のように過剰なまでに露悪的に、観る者の神経を逆なでするような不快感で画面を覆い尽くすかのようである。またある時は、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』のように永久に醒めない、延々と引き伸ばされた白昼夢を見ているような印象すら与える。
-
光を失くした父と娘の行く末-
かつて、同工のモチーフを扱った作品としては、中世のバラードを下敷きに、娘を野盗に凌辱された父親が復讐するイングマル・ベルイマンの『処女の泉』(60)があり、息子を殺した少年と対峙し、苦悩する父親を描いたジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』(02)があった。しかし、『父の秘密』は、宗教的な救済やモラルを探求するこの二作品とは大きく異なる地平で、名状し難いクライマックスを迎える。マイケル・フランコは、この悲痛なアイロニーに満ちた、仮借ない、あまりに現代的な悲劇といかに向き合えるか、と問いかけるのである。
アレハンドラを演じたテッサ・イアは『あの日、欲望の大地で』(09)でデビューし、本作が長篇映画2作目の新人女優。そして彼女を取り巻くクラスメートのほとんどが演技経験のない、実際のイアの友人によって演じられた。
STORY
-
ごく普通の父娘-ロベルトとアレハンドラは、最愛の妻・ルシアを自動車事故で失い、深い悲しみに打ちひしがれていた。2人は新しい土地でやり直そうと、高級住宅街のプエルト・ヴァラルタを引き払い、メキシコシティへと引っ越してくる。ほとんど家具が置かれていない新しい家は、まるで父娘の虚無感を表しているよう。
「前の家のものをここに飾ろう」「いや、新しく揃えよう」
-
アレハンドラは新しい学校で受けた尿検査で陽性反応が出てしまい、マリファナを吸っていたことをロベルトに知られてしまう。彼は娘を心配するが「もう吸わない」と約束するアレハンドラに、それ以上の言葉をかけることができない。
「父子関係は順調ですか?」「仲がいいよ」
-
一方、ロベルトは保険会社で妻の事故について調査を受けるが、事故の日の詳細を尋ねられて、動揺してしまう。
「娘さんが運転を?」「娘は乗っていなかった」
-
アレハンドラは悲しみから立ち直れない父親を気に掛け、必死に亡き母の代わりを務めようとする。妻の服を着て、大人びた振る舞いをする娘に戸惑うロベルト。
「ママの服を?」「着替える?」
-
次第に新しい学校生活に馴染み始めるアレハンドラ。ある週末、仲良くなった同級生たちと遊びに出掛け、クラスの人気者であるホセと一夜限りの関係を持ってしまう。行為の一部始終を録画するホセ。翌日、学校中にその動画が配信されるやいなや、彼らの態度は一変する。ホセに好意を抱いていたカミーラはアレハンドラを激しく罵り、仲間たちと彼女をいじめ始める。
「このアバズレ!」
-
日々エスカレートしていくいじめ。カミーラたちに髪の毛を切られてしまったアレハンドラは耐えきれなくなり、すべてを捨てて逃げ出そうとする。しかし、いまだ悲しみで心を閉ざし、自身のレストラン経営もうまくいかない父親に余計な心配は掛けられないと思い直した彼女は、いじめられていることを相談もできず、自分一人で耐えることを選ぶのだった。
-
憂鬱な臨海学校を休むこともできないアレハンドラ。同級生たちが酒宴を繰り広げる中、宿泊先のホテルの部屋でトイレに閉じ込められた彼女は、男子生徒から凌辱されてしまう。その夜、同級生たちに夜の海へと投げ込まれたアレハンドラは、そのまま姿を消してしまう…。
-
アレハンドラが行方不明になり、学校は大騒ぎになる。その知らせで初めて、娘がいじめにあっていたことを知ったロベルトだが、いじめていた生徒たちは皆、素知らぬふりをする。
懸命な捜索活動が続けられるが、アレハンドラは一向に見つからない。娘までも失ってしまったと嘆くロベルトの怒りは、ついに頂点に達する。
「私はバカだ」
-
ロベルトはいじめの原因を作ったホセを連れ出し、アレハンドラが消えた海へと車を走らせるのだった…。
interview
-
マイケルフランコ監督インタビュー
「この作品の主題は暴力ですが、野心的に思われるのが嫌で
ずっと言えませんでした」
撮影中は、あまりにも野心的に聞こえると嫌だったので「暴力に関する映画」に取り組んでいると言うことにためらいを感じていました。けれども撮り終えた今は自信を持って言いましょう。この映画の本質は、様々な形での暴力です。いじめのことだけを指しているのではありません。道で父親が起こしてしまうことも、父親が働いている場所で起きる
ことも「暴力」なのです。この物語の父と娘の関係性―もしくは壊れてしまった関係―でさえも、ある意味「暴力」であることがわかるでしょう。意識したのは、登場人物たちの残酷な本能を、扇情的にせずスクリーンに出し続けることでした。そうしたのは、観客に観ているものとの距離を感じてもらいたかったからです。登場人物の暴力への衝動、そしてその結果、彼らの関係がどうなるかをこの映画で描きたかったのです。
-
「いじめ問題の映画ではありません。リアルに描いたので、そこがピックアップされていますが、あなたの隣で起きていることだということを感じさせたかった」
メキシコは、一歩外に出るともう戦場のようなものなので、僕が書き上げた事はあまり驚くようなことではありません。メキシコ自体が血気盛んな国なので、脚本に出てくるエピソードは特に苦労せずに書くことができました。それに、これはメキシコだけじゃなく、世界各国で起きている・起こり得ることでしょう?ノルウェーでだって、アメリカでだって…いじめや暴力のない国なんかないはずです。
『父の秘密』は「Daniel and Ana」(09)に続く僕の長編第2作です。少ない経験の中で、なんとか映画が面白くなるような要素を考えたのですが、それはまったく使えないアイディアでした。その代わり、どのシーンでも撮影中に神が下りてくるものなのです。僕はいつもアンテナを張り巡らせていましたし、自分をこんなにも悩ませている物事に、生気を吹き込もうと努めていました。
-
「いじめを受けているのにそのことを話せない子ども、最愛の人の死によって生きることをやめた大人。彼らにはそれぞれモデルがいて、ずっと僕の心にいたのです」
『父の秘密』は、2つの事柄から生まれた映画です。まず1つ目は、最愛の人の死から立ち直れない時、人は残された他の人の存在を忘れるものだろうか、という疑問でした。子どもの頃、近しい人が亡くなった悲しみから立ち直れない人を見てから、ずっと思ってきたことでもあります。彼にとっては、どんなに時間が経っても、その人の死は「現在」のもので、そのため彼はまわりのすべての物事を受け入れられなくなりました。これは、僕にとって衝撃的な経験でした。
2つ目はある出会いです。僕は、学校で驚くほど残酷ないじめを1年以上も受けていた青年と出会いました。彼のクラスメートはなぜそんなにも残酷な行為ができるのか?そしてなぜこの子は自分が受けている拷問を誰にも言わなかったのか?親にも彼は言えなかった。その理由を掘り下げたいと思いました。
このことからロベルトとアレハンドラのキャラクターが生まれました。
-
「キャラクターを膨らませていくと、あまりにも悲しい物語になってしまいましたが、これは愛情に根付いた物語です」
娘のアレハンドラは、学校で受けるあらゆるいじめに耐えますが、なぜ誰にも相談しないかと言えば、父・ロベルトにこれ以上悩みを持ってもらいたくないという思いからでした。彼女は早く父に母・ルシアの死から立ち直ってもらいたかったのです。アレハンドラは、今や二人きりとなってしまった家に、母がいた頃のような幸せや平穏を取り戻そうとし、自分が強くならなければと思うようになります。しかし、彼女にとってそれは荷が重すぎました。なぜなら、父だけでなく彼女もまだ悲しみを癒すことができずにいたからです。こうして父と娘の絆はバランスを欠いていきます。アレハンドラは家族の中での女性的役割(それまでは母がやっていたこと)を果たそうとします。一方、父はそんな娘にどう接していいのかわかりません。彼は、彼女が何を望んでいるのかもわからないのです。さらにアレハンドラは思春期で、自分の世界を築いている最中です。彼女こそ頼れる人を必要としていたのです。
-
「学校の世界を映し出すには俗悪と言われようと、徹底したいやらしさが必要でした」
彼女のクラスメートたちは、アレハンドラがいじめに耐え、さらにはそのことを誰にも言わないことを確信していました。彼らは彼女の事情も、その境遇さえも知っていますが、同情する代わりに弱みにつけ込み、いじめはどんどんエスカレートしていくのです。こうしたいじめは、普通のどこにでもある教室で起こっています。メキシコだけではなく、世界のどの国にもいじめのない学校なんてありません。今やいじめは薬物問題と同様に学校生活の中でどうにかしなくてはいけない重要な問題ですが、しかしそのための学校の機能がうまく働いていないのです。学校は生徒たちを見張る機能を持っていますが、その私生活まで探ることはできません。もしそんなことができたとしたら、ますます危険なことになってしまいますが。学校の世界を映し出すには、ある種徹底したいやらしさが必要でした。生徒だけではありません。学校自体にもそれは出したかった。アレハンドラという子どもが声なき悲鳴をあげているのに、それを無視する世界でなければ彼女は逃げ出さなかったでしょうから。
-
「競争社会というものは、人の痛みを無視するものです」
どんな集団社会でも、支配する者、される者という線引きが必ずあります。学校時代には、経験や知識の不足や未熟さによってなおさらこの線引きが強調されるように感じます。どんな遊び場でも行われている、一見無害なゲームの中にさえ、権力闘争の意図が隠されているのです。人間の成長過程において、子どもたちの残酷ともいえる本能は大抵そうした時に垣間見えるものです。最下位の子が傷つくからって、テニスのトーナメントがなくなるなんてありえないでしょう。もし、そういうことを言う人がいたら狂っていると思いますが、競争して勝ち負けを決めるということは、人の痛みを無視する行為なのかもしれません。だとしても、なんと多くのいじめ被害者たちが、黙ったまま自殺することを選ぶのでしょうか。しかしながら、私はそういういじめの実態報告のような作品を撮りたかったわけではありません。ただ、観客が理解しやすい題材として、この問題を選んだのです。
「父の心が生き返るタイミングの皮肉と不幸は、父と娘が間違った選択をし続けたことによって引き起こされます」
この映画で、父の心は死んでいますので、彼は娘に何が起きているのかさえ気づきせん。それでもなんとか仕事をするだけの気力を持とうとしていますが、その辛さを誰にも打ち明けません。彼が少しも前向きにならず、周囲に打ち解けないがために、愛情ある支えを受けられないのです。彼は悪者ではありません―心は弱いがやさしい人間なのです。愛する者を失ったら誰だってそうなるでしょう。娘がどん底に追いやられたその時、父に相談していたら、まさにその時こそがロベルトが命を吹き返すきっかけとなり事態は好転したでしょう。しかし、アレハンドラは自分が犠牲者となっていることに目的を持たせるため、彼を残して突然姿を消すことを選ぶのです。ロベルトは娘の状況が悪くなっているのを知りませんでしたが、それが一つずつ発覚するたびに、彼の心は生き返っていくのです。父と娘は、自分たちが最も必要としていることを選ばずに間違いを犯します。最愛の人が消えて、父がどう思うかを娘は考えなかったのでしょうか。いじめがばれないとでも?重要な時点での父と娘の選択の間違いが、最後の決断へと父を駆り立てます。それが、僕が描きたかった皮肉と不幸なのです。
-
「テッサ・イアがいなかったら、この作品はそもそも映画になっていなかった」
映像を自然で現実感のあるものとするために、私はこの作品で試行錯誤を繰り返しました。自分で脚本を書いたので、登場人物たちが次にどんな行動を取るかを正確に知っていたことが、とても役に立ちましたね。撮影が進むにつれ、俳優たちがどんどん「現実化」して行くのを間近で見られたことも良かったと思います。アレハンドラを演じたテッサ・イアは、彼女が11歳の時に出演したギジェルモ・アリアガ監督『あの日、欲望の大地で』(09)がデビュー作でしたが、すでにどうしたら自然な演技ができるのかを知っていました。彼女は多くの子役がよくやる大げさな表情を作りませんでした。実はこの作品は当初、娘ではなく息子で想定していました。私は彼女の母親を知っていたので、当然彼女のこともとても小さいころから知っていました。ある日、テッサと話をしていて、急に彼女がこの作品の主要人物としてぴったりだと思ったのです。それからテッサの家族の友達として、僕は彼女の家で長い時間を過ごしました。それが、スクリーン上で彼らが自然に映るような脚本作りを容易にしたのでしょう。
-
「クラスメートは、ほとんどがテッサの友人で、素人です。しかし、みんなあんなことはしていませんよ。この映画で危惧したのは、彼らのメンタルに悪影響が出ることでした」
映画に出演している子どもたちは、テッサのクラスメートや友達にお願いしました。彼らは誰もプロの俳優ではありませんでしたが、全員敏感な十代であることが彼らの役柄に真実をもたらしましたし、また彼らも映画製作の過程を十分に理解してくれました。準備期間で演技のレッスンを積み、撮影を始めた時には生意気にもアドリブを入れるようにもなりました(笑)。心配だったのは彼らに対し、役柄がもたらすだろう悪影響です。健全な生徒たちではなく、ねたみや嫉みで残酷ないじめをする役なわけですから。精神科医をつけました。おかげでテッサと彼らは今も仲良しです。また、何人かは俳優になりたいと言ってくれます。とても嬉しいことです。
-
【マイケル・フランコ監督プロフィール】
1979年メキシコシティ生まれ。短編映画制作からキャリアを始める。政府の腐敗を批判した「CUANDO SEA GRANDE」(01)が、メキシコでは500スクリーンで上映された。次に制作した「ENTRE DOS」(03)では、ウェスカ映画祭で特別賞を受賞、ドレスデン映画祭では最優秀短編映画作品賞を受賞。同時期、彼は会社を作り、CMやミュージック・ビデオのプロデュースを始め、高い評価を得る。初長編監督作「Daniel and Ana」(09)は、カンヌ国際映画祭監督週間に選ばれたことをはじめ、各国の国際映画祭に招待され、メキシコはもちろんスペイン、フランスそしてアメリカなどで広く公開され、批評家や観客に高い支持を得た。続く本作では第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリに輝き、第85回アカデミー賞®外国語映画賞メキシコ代表にも選ばれた。
interview
-
テッサ・イア インタビュー
最初は息子の設定だったそうですね。
そうです。監督のマイケルは母の友人だったので、彼が脚本を書いている時によく「十代の子どもの生活」のことを聞かれていました。最初は父と息子の物語でしたが、マイケルがこの映画には私が必要だと言ってくれて設定を変えたんです。正直、とてもうれしかった。私も少なからずお話作りに関わっていたので、この作品に脇役でもいいから出演したいと思っていたから。
-
実際脚本を読んでショックじゃなかったですか?
うーん、読んでいて悲しくなったり苦しくなったりしました。でも、前に私が出演した『あの日、欲望の大地で』(09)でもそうでしたが、キャラクターが持つ感情を想像できたことがよかったのだと思います。アレハンドラの受ける苦悩を演じたいと思えるようになりました。それよりも出来上がった映画を観た時の方がショックを受けました。とても強い力で心が抑えつけられたような気がしましたが、あの時、あそこにカメラマンが隠れていたなとか、音声さんがここにいたな、ということも思い出されました。
-
劇中の同級生たちはあなた自身の友達だったそうですね。プロじゃない彼らとの仕事は大変でしたか?
大半はマイケルが私の家で脚本を書いていた時に居合わせた、私の友達でした。プロの役者は一人か二人いただけです。彼らとの仕事は、むしろこの映画に関してはとても良かったと思います。難しいシーンも、私が彼らを信頼していたからできました。またマイケルがいつも「簡単だよ」と言ってくれていたので、彼らも演技することにプレッシャーを感じなかったかもしれません。
-
女優としての出演作はこれが2作目ですが、どちらもとても高い評価を得ていますね。
がんばったことで評価を受けるのはとてもうれしいです。どちらもやりたいと願った役でしたが、前回よりも深く関わったこの作品で評価されたことは誇りに思います。今後も女優は続けていきたいです。
-
【テッサ・イア プロフィール】
メキシコの女優であり脚本家としても活躍するナイレア・ノルビンドの娘として生まれる。テッサが生まれてしばらくして、両親は離婚。子どもたちには普通の生活をさせたいという母・ナイレアの意向のもと育てられる。10歳の時に、母の友人であった『バベル』(06)の脚本家ギジェルモ・アリアガに見いだされ、彼の初長編監督作『あの日、欲望の大地で』(09)で鮮烈なデビューを飾る。しかし、その後も学業を優先させ、女優としての活動はTVドラマに友情出演しただけで、『父の秘密』は久しぶりの映画出演作である。本作でカンヌ国際映画祭を始め、数々の映画祭で高い評価を得た彼女だが、あくまでもマイペースに出演作品を決めており、次回作は短編映画に出演の予定。